HeartBreakerU 7
次に目が覚めたのは、もう午後だった。外では相変わらず雨が降っているようだ。
沖田が身じろぎしたのを感じたのか、隣で千鶴が寝返りを打つ。
「……今日は寝坊なんだね」
沖田が千鶴の顔を見ながらそうつぶやくと、千鶴の重たげな睫がゆっくりと上がった。
「……沖田さん……おはようございます……」
「もう昼すぎだけどね」
「……」
千鶴はぼんやりしたまま部屋を見渡し、壁にかかっている時計を見た。
「……もうこんな時間……」
昼はとっくに過ぎている。起きようと身じろぎをした千鶴を、沖田は後ろから抱き留めた。
「沖田さん……お腹すいたんじゃないですか?」
「うーん……すいたはすいたけど……でもこっちも捨てがたいし……」
沖田は千鶴の裸の胸を後ろから包む。
「んっ…お、沖田さん…!」
千鶴がびくんと体を震わせた反応に、沖田の下半身が反応してしまった。うしろから腰を押し付けながら千鶴のうなじに唇を這わす。
「沖田さん……今日一日何もできなくなっちゃいますよ。昨日ついたばかりでまだ荷物もほどいてないのに……」
「別に夜でいいんじゃない? 明日でもいいし」
「でも……」
形ばかり抗う千鶴にはかまわず、沖田の手はゆっくりと彼女の胸から下へと辿って行く。温かい繁みにたどり着き、そこをゆっくりとほぐしていくと、千鶴の体から力が抜けて唇からは小さな声が漏れ出す。
「ここ、好きでしょ……?」
沖田が耳元でそう囁くと、千鶴は体をのけぞらせるようにして沖田に全身をあずけてきた。
沖田は彼女の脚を後ろから広げさせて、後ろからスルリと入り込む。
「あ……」
まだそれほど準備ができていない彼女を優しくほぐしながら、沖田はゆっくりと動き出した。
結局荷物を解いたのは夕飯を食べた後だった。
来る途中で寄ったコンビニを大きくしたような食料品店で買った荷物を片付けながら、千鶴は不思議に思っていたことを沖田に聞いた。
「どうしてこの山荘に来ることにしたんですか? 逃げるだけなら東京とか大阪とか、もっと遠くに行けばいいと思ってたんですが」
沖田はスーツケースの中にあった充電器とパソコンをダイニングのテーブルに運びながら答える。
「連絡がね、もしかしたら来てないかと思って、さ」
「連絡……ですか?」
千鶴は首をかしげてそう言った。
「そ。未来の僕の仲間たちからね」
「……でも、タイムマシンは沖田さんがこの時代で失くしてしまったんじゃ?」
「タイムマシン自体はそうだけど、技術と知識が未来にあったことは事実で、僕が時間の流れを変えたことでそれがどう変化したかはわからないんだ。もしまだタイムトラベルをする技術が残されていて、過去にいる僕に連絡を取りたいことが発生したとしたら、多分ここが使われると思ってそれを確認しに来たんだよ」
沖田はそう言うと、山荘の造りり付けのレンガの暖炉の方へと歩いて行った。
「僕が過去に来るとき、もし何かあったときに連絡が取れる場合はこうしよう、って仲間と決めておいたやり方があるんだ」
千鶴が見ている前で、沖田は暖炉の上部分にあるレンガをの一つを掴み、揺らすようにして動かしている。
「よいしょっと…固いな…」と言いながらレンガを動かしていると、そのレンガが徐々に動いて外れだした。千鶴が目を見開くと、沖田はさらに力を入れてレンガを掴み、とうとう『ボコッ』という音とともにはずしてしまった。
「レンガが……」
千鶴が驚いて沖田の傍へ行くと、沖田はレンガが抜けた後の穴に腕をつっこんでいる。その穴は意外に深そうだった。
「未来でこの山荘にみんなで暮らしてた時にね、仲間の一人の新八さんっていう人がチャンバラごこっこをしててこれを外しちゃったんだよ。壊れたかと思ったけど、もともとこれだけが粘着力が甘かっただけみたいで、きれいに外れたんだ。で、何か未来から過去の僕に渡したいものができたらここに未来から送るって約束をして、僕は過去にタイムトラベルしたってわけ」
穴から取り出した沖田の手には何も掴まれていなかった。沖田は肩をすくめる。
「便りがないのが良い便りっていうし、うまく行ってればタイムトラベルの技術は残っててもそれを利用する頭脳がなくなってるはずだから、何の連絡も入ってないってことはうまく行ってるととっていいと思いたいんだけどね」
沖田はそう言いながら、外したレンガをもう一度治している。
「……何か、不安なことでもあるんですか?」
「……うーん……まだよくわからないんだけどね……」
レンガを戻している沖田の瞳は何かを考えていて、千鶴は気になった。
変若水を飲んだ沖田の事、自分を追っている薫のこと、そして未来がどうなっているか……
全てがわからなくてすべてが不安だ。前は綱道に、今は薫の組織から、沖田と千鶴は逃避行を続けなくてはいけないのだ。
千鶴には何も力がないけれど、それでも大事な物だけは守りたい。
千鶴の脳裏に、沖田はもちろん、大久保や会社のみんなの顔が浮かんだ。そしてちらりと薫の顔も。
妙に幸せな気分で沖田は目が覚めた。
周りが静かでベッドの中はあたたかく良い匂いがする。沖田はぼんやりと瞼を開けて天井を見上げ……そしてはっと横を見た。
……やっぱり……
ベッドの隣はもぬけの殻だった。
前にもこんなことがあったなと思いながら、沖田は起き上る。あの時は逃げられたかさらわれたかと一瞬ヒヤリとしたが、今はそんなことはない。薫の組織は病院から抜け出した自分たちを探しているだろうが、ここに来るまでの足跡は完璧に消してあるし、この場所や所有者と千鶴は全く関係がないから、奴らが探し出すことは難しいだろう。多分台所か……いや、コーヒーの匂いもフライパンの油がたてる音もしないから、多分あそこだろう。
春のはじめの頃に花が咲き乱れる、崖の上に付きだしたようになっている丘。
沖田が着替えてのんびりとそこに行くと、思った通り千鶴が茂った草の中に立っていた。
「……おはよ」
沖田が隣に立つと、千鶴は「おはようございます」とにっこりとほほ笑んで見上げる。
「朝起きるときは傍にいてって何度もお願いしてるのになあ」
沖田が拗ねたようにそう言うと、千鶴はいたずらっぽく笑った。
「沖田さんの朝はとっても危険なんで、今日は先に抜け出しちゃいました」
昨日の朝の事……いや朝だけではなく結局ほぼ一日ベッドの中ですごしてしまったが……を言っているのがわかり、沖田はにやりと笑った。
「危険じゃないでしょ。君だって楽しんだと思うけど?」
「……」
千鶴の白い頬がうっすらと染まる。
「……今日は洗濯とか掃除とか、いろいろやらないといけないことがあるんでダメなんです」
沖田は笑うと、視線を千鶴から丘の先へとめぐらせた。突き出しているせいで強い風が崖の方から吹き上げてくる。
千鶴は、隣の長身の沖田を見上げた。
彼は相変わらずの内心をさとらせない表情で丘の先を見ている。茶色の柔らかそうな髪が風にもてあそばれて、彼の額や綺麗な緑の瞳にかかる。
千鶴は視線を逸らした。
「……その、体調はどうですか?」
沖田がこちらを見たのを感じながらも、千鶴は自分の組んだ手をじっと見ていた。薫の血から作った変若水は、昼夜逆転の羅刹の生態は改良したと聞いているが……
「体調は……いいね。あいつが本当のことを言うなんて驚きだけど、まあ当然かなと言う気もするし」
あいつというのは薫の事だ。
あの日、千鶴が眠っているときに病室で、薫が沖田に渡した変若水とそれの実験結果。
千鶴と沖田は隅々まで読んだ。かなり正確な数値や考察が書かれていて、薫が内容を改竄せずにそのまま持ち出したのが伺える内容だった。
薫の血から作った変若水を飲んだ者は、人に伝染すことができるのかどうか。
沖田のタイムトラベルの後遺症は変若水で治るのか。
二人で散々話し合い、薫の目的や性格、そしてこの実験結果を総合的に分析をして、多分薫は嘘を言っていないだろうと結論づけた。
薫はそれほどまでに沖田を羅刹にしたかったのだろう。……千鶴を苦しめるために。
薫の育った環境がそれほど彼を捻じ曲げてしまったのだ。
薫の味わった苦痛を思うと単純に彼を責められない千鶴もいる。
千鶴が暗い顔をしていると、沖田は気分を変えるように軽い感じで言った。
「いいところもあれば悪い所もあるよ。夜も別に眠くなるし、吸血衝動も今は特にない。タイムトラベルの後遺症もかなり楽になったよ。体もタイムトラベルをする前みたいに軽いし頭も腹も痛くない。もうしばらくすれば多分完治すると思う。そう考えると変若水って傷や怪我を治す万能薬でもあるんだね。でも理性をなくしちゃうんじゃ実用化は難しいよね」
自分のことなのに何も感じていない様子の沖田に、千鶴は悲しくなった。彼のすべてを奪ったのは千鶴なのに。まだ責められたり苦しんでくれた方が楽なのに、沖田はそれを当然のこととして受け入れてしまっている。
「また暗い顔して。君が気に病むことはないんだって何回もいったよね?」
「そうですけど……でも、私のせいなのは変わらないじゃないですか。私が……私が適合者でなかったら……」
沖田は溜息をつくと、手を腰にあてて丘の先の方を見た。
「君が適合者じゃなかったら、僕たちはそもそも出会えていなかったよ。僕にはそっちの方がずっと怖い」
「……私だってそれはそうです、けど……」
沖田に出会えていなかったら。そしたらこの輝く緑の瞳が千鶴を見るときに色が濃くなることも、少し薄い唇のキスがとても甘いことも、広い肩とがっしりした腕に抱かれるときの安心感も、きっと何も知らなかった。
にこやかで優しいかと思えば、平気で残酷なことをする二面性も、甘やかしてくれた後に意地悪を言うところも、大きな手のひらも艶やかな声も、時々黙り込む癖も、朝に傍にいて欲しいという我儘も、彼を思って胸が痛くなるような切なさも、何も知らずに。
そんな人生は、そんな世界は恐ろしく味気ないだろう。
「でも、私のために沖田さんが傷ついたり何かを失ったりするのはつらいんです」
好きだからなおの事。愛おしいからこそ。
千鶴が俯いたままそう言うと、沖田はしばらく何も言わなかった。
初夏の風が二人の髪を柔らかく揺らす。
ところどころに生えている小さなピンク色の花が、ゆらゆらと揺れていた。
「……タイムトラベルは、まだ未熟な技術だし論理的にもわかっていないことが多いんだけど……」
沖田が話だしたので千鶴は顔をあげた。彼は丘の先を見つめたまま続ける。
「『不変理論』っていうのがあるんだよ」
「『不変理論』……」
「そう。タイムパラドックスに対しては昔から並行世界論とか収斂理論とかいろいろあるんだけどね、一度タイムパラドックスを経験してみて不変理論っていうのが一番実際の現象に合ってるんじゃないのかなって今は思ってる」
「どんな理論なんですか?」
「過去を変えると未来は変わる。でも変わらない未来もあるんじゃないかっていう論理」
クエスチョンマークを顔に張り付けて首をかしげている千鶴に、沖田はもう少し詳しく説明した。
「たとえば僕の例で言えば……綱道が死ぬことは『変えることができる事象』で、世界が羅刹によって支配されることは『変えられない事象』だったんじゃないかって。僕は過去にさかのぼって綱道を殺して、君を『血のマリア』にしない世界に変えることができた。その時は僕も未来の仲間もみんな、『血のマリア』がいなければ羅刹に支配される世界も無いと思っていたんだよね。でも、こっちに残って、薫や薫の組織の存在を知って、そいつらが変若水を研究して薫を手に入れて、更に君まで手に入れたがっているのがわかってくると、行きつく先は結局、羅刹に支配される世界なのかなってさ」
「……」
「何が『変えることのできる事象』で、何が『変えられない事象』なのかは、多分だれもわからない。過去で、本来なら死ぬべき誰かを助けたとしても、その事象がもしかして『変えられない事象』なのだとしたら、その人はきっと別の要因で必ず死ぬことになる。何度助けても、きっと何度も何度も死んでしまう。逆に『変えることのできる事象』だったら、その人は一度助けられたら未来も生き続けていくことができる。羅刹に支配される世界は『変えられない事象』なんじゃないかなってさ。お先真っ暗な予測だけどね」
「でも、……でもそれならもしかして私の『血のマリアになる』ってことも、『変えられない事象』かもしれない可能性もあるってことですよね?」
千鶴が不安そうにそういうと、沖田はいつものように口の端を少し上げてフッと笑った。
「まあね」
「そんな……」
沖田がすべてを捨てて、命までかけてくれたと言うのに何も変わらないなんて。
「私……私が適合者だったばっかりに、沖田さんまで巻き込んでしまったんですね」
沖田が助けても助けても、時間の大きなうねりが結局千鶴を『血のマリア』にしてしまうとしたら。『羅刹に支配される世界』になってしまうとしたら。そんな運命に巻き込まれた沖田には一体どこに救いがあるのだろう。
二人の幸せな未来のための努力は全て無駄なのだとしたら。
「……それならいっそ、出会わなかった方が……」
そのほうが沖田にとっては幸せだったのではないだろうか。
例えば何とかして過去に戻り、あの日あの夜、綱道コー
ポレーションで。
夜遅くまで残業していた千鶴は、大久保に帰るように言われて一緒の車に乗り、そして沖田に会ったのだ。
暗いゲートの辺りで運転席のガラス越しに中を覗き込んできた沖田の顔を、千鶴は今もはっきりと覚えている。
あの日残業をせずに帰っていたら。そうしたら沖田と一緒に逃避行をすることはなかった。
二人で一緒び逃げたあの一か月が無ければ、沖田はもとの計画通りに『血のマリア』に変化したあとに千鶴の前に現れて血を取って、そして千鶴を殺して未来に戻ったに違いない。そうしていれば、こんなシジフォスの神話のような運命には巻き込まれなかっただろう。
薫もそうだ。
適合者が二人いたから比較検証するために、きっと綱道は薫には小さいころに変若水を投与したのだ。もし一人しかいなければ、もっと慎重に扱われていたかもしれない。
そもそも私が居なければ……
千鶴は暗い気持ちで複雑に絡み合った運命を思った。そしてすべての人の運命の真ん中で紐を絡ませている自分を。
沖田は千鶴が考えている間、何も言わずに彼女の顔を見ていた。
「……君が何を考えているのかなんとなくわかるけどね……」
そう言って再び丘の先へと視線を移した沖田を、千鶴は悲しい瞳で見上げた。
沖田は風を気持ちよさそうに受けて目を細めている。
「君が再び『血のマリア』にされる運命なんだとしたら、僕はそんな君を助けるのが自分の運命なんだと思う」
そういうと、沖田は千鶴の手をとった。
「それでもまた『血のマリア』になることを繰り返すのだとしたら、僕も何度も君を助ける」
沖田の緑色の瞳の色が優しくきらめく。
「何度でも君を助けるよ。それが僕の運命でよかったって思う。いい役だしね」
ニヤッと悪戯っぽく笑った沖田を見て、千鶴は何も言えなかった。
「だってハリウッドのヒーローみたいだよね? ピンチのときに姫を救い出すってさ。最高に美味しい役だよ」
冗談なのか本気なのか……きっと彼の事だからどっちも本気なのだ。
千鶴のことを何度でも助けると心に決めているのも本当で、それを楽しんでいると言うのも本当。
「……もう、沖田さんってば……」
千鶴は思わず吹き出してしまった。いつもそうだ。分かりにくい優しさで千鶴の気持ちを楽にして包んでくれるのだ。
沖田の瞳は甘い緑色に変化し、滲んできた涙を瞬きで隠そうとしている千鶴を優しく抱きしめる。
「……だからもう、君の運命から僕を外そうとするのはあきらめなよ。僕は君から離れないんだからさ」
千鶴は彼の胸の中で、笑いながら泣いていた。
「前もこんなことあったよね。君が未来に帰れってしつこく言ってさ。どうやって説得すればいいか困ったのを覚えてるよ」
「説得なんてしなかったじゃないですか。一人で過去に行っちゃって危険な目にあって怪我をして羅刹になって……何の相談もなく勝手に。その上『探してくれ』って」
千鶴が恨みがましく言うと、沖田が笑った。
「あれ?僕、怒られてる?」
「もう勝手に一人で危険な目に合わないで、二人で決めさせてください」
千鶴は涙に濡れた瞳で沖田を見上げる。
「……私を助けてくれる運命なんでしょう?」
千鶴の言葉に、沖田は満足そうに微笑んだ。
「そうだね。怪我でもしたら助けられなくなっちゃうね」
羅刹の理性を保てるのは、長くて三年――
沖田がいう『変えられない事象』には、沖田が羅刹になることは含まれていたのだろうか。千鶴が『血のマリア』になった世界でも沖田は結局羅刹になってしまっていた。今は千鶴は人間だけれど、沖田は結局羅刹になった。
綱道が死ねばすべてが終わると思っていたのに、また歴史は同じように動き始めてしまっている。
じわじわとにじみ出る不安を押し殺して、千鶴は顔を寄せてくる沖田を見上げて瞼を閉じた。
戯れるような軽い甘いキスを繰りかえす。
たとえどんなに暗雲が立ち込めていたとしてもあきらめないと千鶴は決めたのだ。
諦めずに探せばきっとあるはずだ。
大事な人達を失くさない道が。